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先日、友人から「地理院地図で東京を歩く」1 & 2(清水書院刊)という本を頂いた。 東京や近県の学校で地理の教鞭をとられている(た)先生方が実際にフィールドワークなどで歩いたコースの集大成。 読んでいるうちにむしょうに歩きたくなり現地踏査に及んだ。 とりあえずの散策地は、新一万円札にあやかるべく、渋沢栄一ゆかりの地、東京北区の「王子周辺」とし、同書①の p.110 で小山昌矩氏が案内(執筆)されたコースに挑戦。 スタート地点を上中里駅から都電飛鳥山停留所に変更した以外は、この本で推奨された通りのコースを歩く。 「純正品」地理院地図は正確かもしれないが、情報不足気味で使い勝手はいまいち。 ここではサードパーティー地図と往時の王子がわかる 「陸地測量部地図」を携え、「都電飛鳥山」から Let's Go!
資料 サードパーティー地図:https://www.mapion.co.jp/、 陸地測量部地図:https://ktgis.net/kjmapw/index.html
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都電荒川線は荒川区の三ノ輪橋と新宿区の早稲田を結ぶ都電(東京都電車)路線で、東京さくらトラムの愛称がある。
1955 年ごろの最盛期には 40 系統 213㎞ あった都電は、自動車交通の障害を主な理由に、1972 年までに大部分が廃線・撤去されたが、この荒川線 12.2km だけは残った。
都電の大部分は路面電車だったが、三ノ輪橋・早稲田区間のほとんどがこの写真のような専用軌道だったのが幸いした。
荒川線の前身は、才賀藤吉や渋沢栄一らの出資で設立された王子電気軌道(株)の建設によるもので、1911 年にこの飛鳥山上(現飛鳥山)から大塚(現大塚駅前)までの 2.3㎞ が開通した。
その後順次延伸され、現在のような路線になる(参照:地図で見る建設途上の都電荒川線)。1942 年に東京市に買収されて市電になり、翌年に都電になった。
この写真の都電荒川線飛鳥山停留所は飛鳥山の西の山麓にあり、そこから高さで 10m 足らず登れば山頂に着く。
さくらトラムは今はやりの低床車ではないが、車いすやベビーカーの乗降が便利なようにプラットホームをブロックで嵩上げしたあとが見て取れる。
電車の向こうに見えるのはレトロなデザインの飛鳥山交番、その向こうの木立が、10月 になってほぼ落葉した飛鳥山の桜である。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 44 59.50, +139 44 13.99 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 22°
PanoraGeo-No.600
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鉄骨むき出しのJR線ガードの向こうに、飛鳥山の裾をたどり大きくカーブする飛鳥大坂とそれを上る東京さくらトラムが見える。
都電荒川線のこの愛称はあきらかに桜の名所飛鳥山を意識してのものであろう。トラム(tram)には路面電車の意味があるが、都電荒川線が路面を車と一緒に走るのはこの飛鳥大坂だけで、ここ以外は専用軌道を走る。
現在では明治通りと呼ばれるこの道はかつての岩槻街道である。本郷で中山道と分岐、幸手で日光街道と合流する岩槻街道は日光街道の脇街道で、徳川将軍の日光参詣ルートだったため日光御成道(にっこうおなりみち)とも呼ばれる。
東京都が飛鳥大坂に設置した標識には、「いまはきわめてゆるやかな勾配だが、『東京府村誌』には『飛鳥山坂、本村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る。
長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり』と記されているように都内でも有数な難所であり、荷車の後押して手間賃をかせぐ人もいた・・・」とある(都の標識)。
飛鳥橋は、この写真で JR 線ガードのすぐ向こうを流れていた下郷二十三ヶ所用水(下流の荒川区や台東区では音無川という)にかかる橋であった。
岩槻街道は、その後、JR 王子駅東口で石神井川を渡り、すぐにUターンして、対岸の台地に上る王子大坂にかかる。石神井川の谷を越えるために急坂を下ったり上ったりの王子は岩槻街道のちょっとした難所であった。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 11.34, +139 44 16.38 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 239°
PanoraGeo-No.611
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下町低地と山の手の台地を境する飛鳥山には2種類のトンネルがある。一つは屈曲した狭い峡谷がネックとなって氾濫を起こしやすかった石神井川に造られた長さ 380m の飛鳥山分水路。 もう一つは、この写真にある首都高速中央環状線(略称:中央環状、ルート C2)の飛鳥山トンネルである。 東京湾岸からここまでの下町低地を、荒川、隅田川、石神井川下流部の河岸や川の上を利用して進んできたこの高速道路が山の手の台地に登る位置に飛鳥山がある。 都民の憩いの場である飛鳥山公園を高速道路で分断するわけにはいかないのでトンネルとなったが、それもかなり複雑な構造のものとなった。 下町低地を内回り外回り車線並列の高架で来た道路は、まず都電荒川線とJR 合わせて 10 本の線路をくぐるために急勾配で地下に潜る。 地下では地下鉄南北線を避けるために微妙に上り下りしたあと、この写真のように明治通りの中央に急上昇してくる。 トンネルに入る時は内回り(台地方向)と外回り(下町方向)並列だったものが、幅の狭い明治通りに出るここでは、内回りが上、外回りが下という2層の高架道になる。 また、エンジンをふかして急坂を登る車の騒音防止のため、内回りの登坂車線を防音壁で囲む必要があったため、このように大げさな形になった。 車の時代になった今でも、飛鳥山は交通の難所。ドライバーの方々、くれぐれもご注意のほどを!
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 5.47, +139 44 17.41 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 230°
PanoraGeo-No.604
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北区王子付近で最も人気のあるスポットと言えばやはり飛鳥山であろう。 徳川吉宗が江戸の庶民に娯楽の糧として植えたという1270本を起源とする飛鳥山の桜は、今でも人々を楽しませてくれる。 北西―南東に延びた一帯は飛鳥山公園になっているが、その北西端に近いところに、この写真のようなケルンをかたどった山頂モニュメントがある (案内地図参照)。 あたりはかなり平坦で、高さは 25.4m と表示されている。公園内にはもっと高そうなところもあるのに、何でここが山頂なの?という疑問がわく。 しかし 1909年測図地形図の飛鳥山公園を見ると、この地点に 27.2m の標高点がある。 これに、1993 年まではここにスカイラウンジ(1970 年竣工)と呼ばれる回転展望台があった*1)という事実を組む合わせれば、この謎は氷解する。 すなわち、この地点にはかつて今より 2m くらい高い丘があり、見晴良好で測量の基準点にもなっていたが、回転展望台をつくる際に削られてしまった、ということであろう。 標高 25.7m で東京 23 区最高峰と言われる港区の愛宕山にわずかに及ばす残念、などと言われるが、50 年ほど前までは飛鳥山が最高峰だったのかもしれない。
*1) 中村みつを(2018):東京まちなか超低山 p.17
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 8.60, +139 44 13.38 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 181°
PanoraGeo-No.602
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飛鳥山公園モノレールともよばれるあすかパークレールは、JR 王子駅中央口を西に出たところにある飛鳥山「公園入口」と「山頂」を結ぶ自走式モノレール。
延長 48m で 17.4m の標高差を上る。車両はカタツムリ(エスカルゴ)のイメージなのでアスカルゴという愛称がある。無料、乗務員無しなので普通のエレベーターの感覚で乗れる。
このレールに並走する広い道路は明治通りの飛鳥大坂で、都電荒川線が道路中央を走っている。飛鳥大坂を下りたところを走る JR 在来線と新幹線の向こうに、王子駅東口の市街が見える。
西口はスペースに限界があるので、現在の王子の繁華街やビル街はおもに東口に発達している。
しかし江戸時代や明治時代の繁華街はむしろ西口の台地の麓にあった。ここから左 500m ほどにある王子稲荷への参道には、茶店や料亭が軒を並べていた。
この写真で明治通りに面して並ぶビルのところには、かつて扇屋や海老屋などの大手の料亭があり、飛鳥山の桜、石神井川の紅葉、そして王子稲荷などに訪れた行楽客で繁盛したという。
画面左端の高いビルは、各種のホール、会議室、研修室どを備えた北区の産業と文化の拠点である北とぴあで、最上階 17 階の展望ロビー(無料)からの眺めが良い。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 8.81, +139 44 12.58 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 19°
PanoraGeo-No.603
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王子駅の北にある「北とぴあ」17 階の展望ロビーから南方を見た景観である。
写真中央のカーブしている明治通りを挟んで向こうの木立は飛鳥山公園、手前の杜は王子神社である。
両者とも小高い台地の縁にあり、その北東側(JR 線がある方)は崖になっている。
この崖は、上野付近から赤羽付近まで、南東-北西方向に約 10㎞ 続く崖線の一部である。高さは 20~25mある。
東京の人は、この崖の下の土地(写真左下側)を下町、崖の上(右上側)を山の手と言うが、地形的には前者は下町低地(東京低地)、後者は武蔵野台地である。
すなわち、この崖は武蔵野台地の東縁をなす段丘崖である。
武蔵野台地は台地を刻む谷(開析谷)によって細分される。
ここでは、明治通り沿いの石神井川の谷で分けられ、飛鳥山は南東方から細長く続いて来る上野台に、王子神社は赤羽台に属する(武蔵野台地東縁部の地形参照)。
今から 6000 年ほど前の縄文海進の一時期、武蔵野台地東縁部の崖は、その麓が奥東京湾の海水で洗われていたので、千葉県銚子の屛風ヶ浦と同じような海食崖であるという考えがある。
しかし、屛風ヶ浦の崖は最初から海の波が削ってできたものであるが、この上野台や赤羽台の段丘崖はそうではなく、もともとは利根川または荒川の侵食によるものである。
その後の一時期、波の侵食を受けたとはいえ、その影響はここ王子付近では軽微である(参考:地質断面図)。
このような崖まで海食崖と言ってよいものかどうか、一考を要する。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 17.54, +139 44 12.04 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 174°
PanoraGeo-No.606
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この碑には「此地ハ明治五年(注:1873年)十一月渋澤栄一ノ発議ニ由り創立シタル王子製紙株式會社ガ英国ヨリ機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ発祥ノ地ナリ。・・・」とある。
また、周囲の説明版には、「渋沢栄一は明治維新後、訪れたパリ万国博覧会で『日本の近代化産業を盛んにするために知識を高める新聞などの印刷物の普及が必要であり、洋紙製造事業をすべき』と考え、・・・洋紙製造工場をスタートさせました」とある。
渋沢栄一が王子に製紙工場を建設した理由は、その当時の洋紙の主な原料であった木綿くず(ぼろ)が大量に調達できる大都会近傍であり、製造過程で必要な汚れのない水が得やすいことであった。
その水は王子分水の水である。王子分水は飛鳥山の西麓、後の醸造試験場(現在は同跡地公園)のところに幕府が造った反射炉や大砲製造所で使うために建設されたもので、1865 年に完成した
1909年測図地形図の王子分水)。
幕府が倒れたため反射炉などは使われなかったようであるが、その用地では、1872 年、民間の紡績工場(鹿島紡績所)が王子分水の水を使って操業を始めた。
しかし、この紡績工場では、水車を回すだけに水を使ったので、水量も減らず汚れることもなかった。渋沢栄一はこの水に注目した。
なお、王子分水の元は多摩川で、玉川上水の分水である千川上水を巣鴨で分水したものである。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 12.40, +139 44 19.00 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 171°
PanoraGeo-No.605
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JR 王子駅から徒歩7、8分、赤羽台(十条台)の段丘崖の中腹に、緑に囲まれた王子稲荷神社がある。 王子稲荷神社由緒記には、「当社へは遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道筋に『王子いなりみち』という標石や、奉納石灯籠が建てられて、参詣人の道しるべを務め、又、飛鳥山の桜の花見をかねての行楽客もあり、門前には茶店、料理屋等が数多くありました。 そのうちの一軒は今でも現存しており、道しるべの灯籠の一部は境内に移築保存(昭和三十二年)されています。 境内は台地の中腹にあって、約二千坪、今では市街を見渡す眺めのよい高台ですが、昔は、こんもりと茂った杉の大木に包まれて、昼の暗く、山中には沢山の狐が安住し、神使として大切にされていました。その跡は、今も、「お穴さま」として保存されています。 狐に因む伝説は数多くありますが、料理屋と狐を舞台にした 「王子の狐」の落語は当時の模様をよく伝えています」*1)とあり、江戸時代には大いににぎわったことが知られます。新型コロナ禍のご時世、鳥居前の狐さんもマスク着用。
*1) 玄松子(GenSyouShi)著:「王子稲荷神社」より引用
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 22.66, +139 44 1.56 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 243°
PanoraGeo-No.607
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王子駅の北にある北とぴあ 17 階の展望ロビーから北西、東十条、赤羽方向を望むと、6本の JR の在来線と2本の新幹線の線路が美しいS字を描いている。
左手前に見える森は名主の滝公園で、その左端から右上方向(北西方向)に木立が点々と続くが、これは武蔵野台地(左)と下町低地(右)を境する段丘崖である。上野付近から赤羽まで続くこの段丘崖のうちで、王子付近には昔の風情が残るという貴重さがある。
ここ以外の部分は、崖の直下を通る鉄道が線路を増やすごとに削られて急崖になり、コンクリートで固められた味気ないものになってしまった。しかしここには崖の中腹にも人家があったり、風情のある坂道が残っていたりする。
それは、東十条-王子間だけはこの写真のようなS字を描いて鉄道が崖から離れるためである。それはなぜか?
おそらく、崖の中腹に鎮座するお稲荷様のご利益であろう?!
東北新幹線なすの号の先頭(遠方)付近の跨線橋は、隅田川近くの火薬製造工場と板橋の火薬製造工場や十条の銃砲製造所を結ぶ軍専用の電気鉄道が通っていたところである。
この跨線橋と段丘崖の間の低地では、高い盛土上の軌道を列車がチンチンと音を出しながら走った。
そのためこの高い盛土堤はちんちん山と呼ばれた。盛土堤は撤去され高架道に変わたが、高架道の下にあるちんちん山児童遊園の名の由来はこの盛土堤である(参照:ちんちん山を行く軍専用電気鉄道(1909年測図地形図))。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 18.38, +139 44 11.30 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 319°
PanoraGeo-No.608
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王子の北東、石神井川北岸の十条台(赤羽台の南部)にある陸上自衛隊十条駐屯地や北区中央公園がある場所は、かつて、東京第一陸軍造兵廠第一製造所、さらに前は陸軍の東京砲兵工廠銃砲製造所とよばれる軍事施設であった。
その西端は現在の埼京線(昔の山手線→赤羽線)、東はこの写真の北区中央図書館を含むという広大さであった。
北区中央図書館は 2008 年にここに移転して来たが、その際、1919 年に弾丸鉛身場として造られたこの赤レンガ造りの建物をリフォームして利用することにした。赤レンガ図書館と呼ばれて親しまれている。
この十条台の東京砲兵工廠銃砲製造所は、1905 年、東京文京区にあった工場が手狭になったため移転して来たものであるが、これをはじめとして、王子周辺には多くの銃砲や弾薬工場が集積しており、さながら軍都との感があった。
東京近郊で広い土地が確保できることと、輸送ルートとしての墨田川に近いという地の利があった。
隅田川の河岸から板橋火薬製造所までの電気鉄道沿線には広大な軍事施設が多数並んでいる
(参照:
1909年測図地形図における十条台の軍事工場群)。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 24.36, +139 43 43.26 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 164°
PanoraGeo-No.609
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石神井川が飛鳥山付近で台地から低地に出る手前の2㎞くらいは、この写真のように掘れ込んだ川になっている。
また、昭和の河川改修で直線化される以前にはかなり蛇行を繰り返していた。このように掘れ込んだ蛇行のことを穿入蛇行という
(参照:1909年測図地形図の石神井川穿入蛇行)。
穿入蛇行は、平らな平野を蛇行しながら流れていた川が、侵食力を取り戻して河床を掘り下げるようになった時にできる。どうしてこの区間の石神井川が侵食力を取り戻したのだろうか?
むかしの石神井川は、この写真では両岸のフェンスがある高さにひろがる平野(氾濫原)を蛇行しながら東へ流れ、飛鳥山の西麓に達すると向きを南~南東に変え、上野の不忍池へと流れていた(参照:古石神井川の流路)。
ところが、おそらく数千年前、石神井川の流路が、現在のように飛鳥山の北を通って低地へ直接を流れ出るように変わった(参照:明治時代の石神井川)。
石神井川は高さ十数 m の台地から0m に近い低地に急に下ることになり、急流になった。滝や早瀬ができて川底を活発に掘り下げた。
滝や早瀬は、蛇行する川に沿って次第に上流へ移動して行き、その下流に掘れ込んだ峡谷を残した。こうして蛇行した峡谷、すなわち穿入蛇行ができた。
滝野川という地名は、このように滝や早瀬が多かった石神井川から生じたものである。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 8.97, +139 43 49.49 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 68°
PanoraGeo-No.612
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石神井川が王子で武蔵野台地から下町低地(東京低地)に出る地点に音無(おとなし)親水公園がある。王子付近の石神井川は音無川とも呼ばれる。 この付近は、おそらく数千年前の古石神井川が現在のように転流した地点であるが、その後人の手もいろいろが加えられたところである。 江戸時代には、石神井用水の取り入れ口として王子石堰がつくられ、王子の大滝として観光の名所にもなった。 1958 年の狩野川台風の際にはこの写真正面の王子駅が浸水するなど多くの被害が出た。 それを契機に、蛇行を直線化するなど、各地で石神井川の大規模な改修工事が始まったが、その一つが飛鳥山の下をトンネルで通すパイパス(飛鳥山分水路)の建設である。 これによって通常は水が流れなくなった旧流路を利用してこの音無親水公園がつくられ、1988年に開園した。 写真はその公園の最下流部で、もとの川の形を比較的よく残したつもりの区間を下流向きに撮影したもの。大出水の時にはここも水が流れるので、古く傷んだ石垣の上に大きな石の石垣を重ねて補強してある。 そのため狭くなったり、本来はないはずの岩塊が河床にころがったりなど、往時の石神井川とはだいぶ雰囲気が違う。 落語「王子の狐」などの舞台である料亭王子扇屋は、写真前方ゆるく左にカーブするあたりの右岸にあったが、往時のおおらかな情景は失われている。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 45 9.75, +139 44 10.41 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 34°
PanoraGeo-No.610
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飛鳥山を背にして、飛鳥山停留所から南西方向(大塚・早稲田方向)を望んだ写真で、遠方に保線作業員たちが見えるあたりが次の滝野川一丁目停留所である。
飛鳥山、滝野川一丁目両停留所間の荒川線は完全に直線のはずなのに、何となく曲がって見える。
これは地表面が平らでないためである。ここからは見えないが、滝野川一丁目から先はかなりの上り勾配になり、次の西ヶ原四丁目までの間で約 10m も上る。
要するに、ここは、飛鳥山の頂や西ヶ原の高さの台地から 10m ほど低くなった谷底である(武蔵野台地東縁部の地形の図中央部の✕印)。
むかしの石神井川、すなわち古石神井川がこの比較的広い谷を右から左へ流れていた。おそらく今から数千年前のことである。
石神井川の流路が現在のように変わると、ここを流れなくなった古石神井川に代わって、谷田川という小さな川が流れるようになった。しかしその最上流部は、元とは反対方向へ流れて
石神井川に注ぐようになった。現地の人たちが逆川(さかさがわ)と呼んでいる小川である。
この写真で電車がいるところより一つ手前の小さな踏切が一番低いところで、その下を、今では暗渠化された逆川が左から右へ流れている
(参照:
1909年測図地形図の逆川)。
2021年10月18日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+35 44 59.58, +139 44 14.05 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 216°
PanoraGeo-No.601
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Uploaded on January 31, 2022