![]() 溶岩原野と化した旧阿古集落Old Ako village changed to a lava field |
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![]() ![]() ![]() テーマ 14 三宅島1983年噴火7 BACK⏎ ⇒NEXT 直前のページに戻る |
10 月3日 17 時 20 分ごろ、溶岩流は谷を出て阿古集落のある小さな平野に流入、左右に大きく広がった(参照: 2010 年の空中写真)。
写真は災害7年後、本文5ページの被災前の写真とほぼ同じ地点から、溶岩に埋没した阿古の平野を撮ったものである。
遠方右隅に家屋が若干見えるが、これは集落北部海岸沿い(夕景地区)の家屋である。
噴火後2日目や3日目(10 月5日)でも溶岩流の先端は一日に5m程度前進し続けていた。
これを止め、一軒でも多く溶岩流から守るために、東京から駆け付けた消防庁の部隊と地元の消防団が海水を吸い上げ放水し、溶岩流を固める溶岩冷却作戦を実施した。
その効果あってか、夕景地区では数十棟が埋没を免れている。
夕景地区をはじめ家屋の埋没焼失を免れた住民も、道路が無くては避難先から帰宅することができない。
これらの住民の強い要望から、表面だけは固まったがまだ相当熱い溶岩の上に仮設道路をつくるという、前代未聞の試みがなされた。
これが図らずも大成功。被災後1週間(10 月 10 日)に、この写真撮影地点(鉄砲場)で溶岩に埋没した三宅島一周道路の仮設道路が開通、19 日にはこの写真にある夕景地区への道路も開通した。
この溶岩流による阿古集落の建物の被害は、公共施設では、小中学校が埋没したほか、保育所や給食センターなど 10 棟が埋没、
民家では、民宿や旅館などの併用家屋を含めて、住家 340 棟が埋没焼失して 330 世帯が住み住処を失い、店舗、工場、物置などの非住家 82 棟 を合わせると、被害は 422棟 にのぼる*1)。
写真左手の遠方に見える白い大きなビルは旧阿古小学校の3階建て校舎で、その左に中学校の二階建て校舎の高い部分だけが白く見える。しかし赤い屋根の中学校体育館の姿はない。
*1) 東京都(1985): 記録 昭和58年 三宅島噴火災害。 阿古の溶岩流災害に関する最も詳しい資料。ファイルは 38MB と大きい。
1990年11月3日撮影 カメラの位置 (緯度,経度):+34 4 46.06, +139 29 6.29 (Google Map) 撮影方向:北から時計回り 283°
PanoraGeo-No.256
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